父:寅吉(39歳)  母:一恵(27歳)  私:泰代(4歳)  妹:和代(2歳)

 私の戦争体験




国策を信じて

昭和十五年九月十二日(この年は紀元二千六百年と言われました)に台湾台南州虎尾郡二崙庄で生まれました。父母は二人とも教師でした。父は成績優秀でたくさんの夢があったのですが、貧農の次男坊の為当時よくある教師の道に進みました。母は庄屋の長女ですが、父親が商売に失敗し、母を祖母に預けて一家で朝鮮に渡りました。

成長した二人は同じ小学校に勤務していたとき結婚し、新婚旅行は台湾行きでした。昭和十三年三月のことです。戦争が始まるなど全く意識していなかったし、数年台湾で過ごした後、鎌倉に家を建てる予定でした。


台湾での暮らし

二部屋だけの官舎暮らしでしたが、庭にはバナナやマンゴーが実り、近くに台湾人の住居もあり、よく遊びに行きました。父は小学校で台湾の子どもたちに日本語を教えていましたが、台湾の子どもたちを家に呼び、食事をあげたり、床屋をしたり懇ろに面倒をみていました。そんな中で私は台湾語を自然に覚え、台湾の子どもたちと一緒になって遊びまわっていました。


爆撃が始まる

昭和十八年頃には家の周りに爆弾が落ち始め、製糖会社が爆撃を受け燃え上がるのが家からもよく見えました。防空壕に一日に何度も逃げました。防空壕は父が手作りで頑丈に作り、入り口にはドアもついており、ドアの外は草を這わせ、カモフラージュしてありました。その防空壕の中でもバリバリという爆弾が落ちる音を何度も聞きました。昭和二十年五月に父に召集令状が来ました。

「元気でいなさいよ。」と父が私の手を握って別れました。父は「この中でおまえらは死ぬのか。」と涙を流していました。真っ暗な灯火管制の中、見送る人も兵隊も何も見えませんでした。兵隊の中には台湾人もいましたが、砂糖キビを積む荷車に乗せられ、音も立てずに闇の中に消えていきました。

「空襲警報発令」と言われると、「敵機来襲」と言いながら耳を押さえて防空頭巾を被り、身重の母と3歳の妹を先導して防空壕に逃げました。夜中に突然目を覚まし、「テッキライシュウ!」と言って耳を押さえて逃げようとすることも度々でした。「やっちゃん、空襲警報鳴らないよ。」と言われると安心して休みました。

父は海南島で守備をしていましたが、字が上手だった為本部で書き物の任務に就いていたので、幸い敗戦後無事帰って来ました。その時も真っ暗で、ひげがぼうぼうと生え,誰なのか分からなかったのですが「元気だったか」の声に父と分かりました。


グラマンの奇襲

常夏の島でガチョウに乗ったり、台湾の子どもたちと野山を駆け回って遊んでいた日々が、空襲警報に怯え、防空壕に一日に何度も逃げ入る毎日に変わりました。灯火管制で大好きな本読みもままならなくなりました。

そんなある日空襲警報が解除されたので、久しぶりに母と妹の三人で買い物に出かけました。道を歩いていると突然グラマン機が急降下して来ました。サトウキビ畑に走りこんで三人で伏せていたのですが、サトウキビがなびいて見えてしまいました。

母は私たち二人の上に覆いかぶさり、急降下したグラマンを睨み返しました。母の目とパイロットの目が合いました。殺されてたまるものかという母の気迫にパイロットはそのまま行き過ぎていきました。女性のパイロットだったので、見逃してくれたのかもしれないと母は私たちに言いました。


玉音放送

八月十五日と十六日の二度放送がありましたが、何のことかわからず、大人たちは隣の人たちとどうしようかと話し合っていました。

翌日大根や野菜などみんな持って行かれ、家の中にも押し入られ、家財道具が略奪されました。「敗戦国人!」と言って石を投げられたりもしました。特に警察官などがひどい目にあっていました。でも私の家だけは何もされませんでした。父が台湾の子どもたちや親たちに人間的に接し、尊敬されていたので、襲撃をしなかったと台湾の方から聞きました。またそんな台湾人の方々の配慮でほかの人たちより早く引き上げることができるようにもしてくれました。

国策の中にあっても人としての道を外さないことは国を超えた連帯を生むのだということやそんな教師の道のすばらしさを学んだことが私が教師を目指した原点なのかもしれません。


引き揚げ始まる

昭和二十一年二月二十二日の十時に家を空けるようにという通知がきました。それには持参できるものが細かく記されていました。衣服は夏物と冬物それぞれ三枚、砂糖一キロ、当座の食糧、お金ひとり千円以外は禁止でした。父は食糧や毛布や衣類を背負いました。母は四か月の三女をおんぶし、三歳の次女の手を引き歩きました。長女の私はリュックサックに自分のものを詰めたものを背負って一人で歩いて行きました。一人で転んで、一人で起き上がって歩いていました。よくも泣かなかったと母は言いましたが、内地に帰るのだという思いが私を歩かせたのだと思います。

二崙の駅まで二百人の人たちと歩きました。学校で働いていた台湾人の娘さんが駅まで送ってくれ、「やっちゃん、元気で大きくなるのだよ。台湾のことも忘れないでね。」とだっこして泣いて別れを惜しんでくれました。


二崙からキールンまで

二崙からは窓もない無蓋車に詰め込まれ、長時間走りました。随分走った所で降ろされました。そこは兵舎のようなところでした。自分の持ってきたお米でご飯を炊いて皆で食べるのです。2百人もの人が土間に毛布やゴザを敷いて寝るのですが、暑いやらやかましいやら虫がいるやらでなかなか寝つきませんでした。

朝になると行列を作って暑い中を歩かされました。体力を消耗して転んだり、列を乱したりすると中国兵が空砲を打って脅かしました。野原、山、河原とやたらに歩かされました。野原で寝ることもありましたし、野宿することもありましたし、無蓋車につめこまれたりもしました。この間に歩くことが出来なくなった人が座り込んだり、倒れていたりしていましたが、止まることを許されないのでそのまま行き過ぎて行くしかありませんでした。後ろ髪を引かれる思いでした。

一週間かかってキールンの港に着きました。


引き揚げ船の中

キールンの公会堂のような大きな建物の中で船が出るのを待って三日間泊らせられました。一日にコーリャンの入ったおにぎりを一つくれるだけだったので私たち子どもは空腹でたまりませんでした。母は母乳が出なくなり、4か月の妹にコーリャンを噛んで口に入れたり、お茶を飲ませたりして必死に生き延びさせていました。おむつを洗うために川を探していると、団体行動を乱したと銃で突かれたりもしました。川が見つからず、そのまま乾かして使いました。

四日目にやっと船が来ました。五千人もの人が船に詰め込まれました。船から縄梯子のようなものを垂らして、それに掴まって上がるのですが、下は海なので怖くて身が縮んでしまいました。

やっと入った船の中は天井と床の間にもう一段空間に床が作られていて二階建てのようになっていました。それにぎっしりと詰め込まれて座らされ、身動きが出来ませんでした。ところどころに桶が置いてあり、おしっこが出たくなると自分の洗面器に出してから桶に開けるのですが、船が揺れるとこぼれて体にかかるし、身動きは出来ないのでパニック状態でした。食べるものは相変わらずコーリャンのおにぎり一個。

母は母乳が全く出なくなり、妹を死なせないために生きた心地がしなかったと言いました。亡くなる人が次々に出るのですが、そのまま海に捨てて走りました。海に落ちる音を聞くたびに心が凍りました。眠ることも動くことも出来ず、三日目にやっと鹿児島沖に着きました。

鹿児島沖に停泊して丸一日検疫をしたり、DDTをかけられたりしました。私たち子どもはかぶれて出来物だらけになってしまいました。四か月の妹は目を開けることが出来なくなってしまい、医者にとても静岡までは持たないと言われました。私は歩けと言われれば歩くのですが、止まるとそのまま倒れてしまい起き上がることが出来なくなっていました。目は白くなっていて、喜怒哀楽の感情が無くなっていました。精神的にも体力的にも限界を超えていたのです。医者はこの子ももう駄目でしょう、置いて行きなさいと言いました。

船から降りて公会堂のようなところで一日泊っておにぎりを噛んで食べさせたり、乾パンをお茶に含ませて飲ませたりして、何としても連れて帰りたいと両親は必至の努力をしました。

汽車の中

翌日やっと汽車に乗ることが出来ました。でも汽車の中は引揚者でいっぱいで身動きできない状態でした。着るものはボロボロで、みんなやせ細っていました。次女はわあわあ泣くので父がだっこしていました。廃人のようになっていた私はみんなに押されて汽車と汽車の間のつなぎ目に立っていましたが、汽車が大きく揺れた時、汽車の外に放り出されそうになりました。

その時後ろから私の首をぎゅっと掴んで元に戻してくれた人がいました。汚れた軍手をはめた大きな手でした。振り返ったのですが、その手が誰の手かわかりませんでした。それだけ混んでいたのです。でもその手の大きさと温かさは今でも忘れることが出来ません。台湾を出てから初めて体験した人間の温かさだったからだと思います。

四日かかって袋井の駅に着き、そこから軽便に乗り換えました。軽便も大変な混みようで、三俣の駅に出迎えに来ていた母の義姉の顔を見た時、涙で母の眼はいっぱいになっていました。


内地での暮らし

両親は新婚旅行が台湾でしたから、内地には家屋も土地もありませんでした。お金は一人千円しか持って来ないし、着るものも食べるものもなく、父の実家での五人の居候生活が始まりました。

父の兄は腕の良い大工でしたが、戦争で片目を無くしてからアルコールに逃げるようになっていました。そんな中に五人も居候がきたのですから、心穏やかではありません。毎日飲んでは暴れ、子どもたちがうるさいと言っては怒鳴り散らしました。次女は怖がって叔父の姿が見えると外に飛び出して遊びに行ってしまいましたが、なぜか私はじっとしているので、食べ方が悪い、座り方が悪い、まずい顔をして食べる、バカ野郎、どこかへ行け等と言って、火箸で殴られたりしました。

住まいは別棟の小屋でした。二枚の敷布団に五人が重なるようにして休みました。夜中になると父が「ノミ退治」と言って皆を起し、布団や衣類のノミを上手につぶしてくれました。天上からは星がよく見え、時には蛇やネズミが落ちてくることもありました。トイレは外の二本橋スタイルでしたから落ちると大変なことになります。

食べ物は配給でした。それだけではとても足りず、大根やお芋を入れた薄い雑炊があればごちそうでした。学校にお弁当を持って行かれず、その時間になると運動場の隅の鉄棒にぶら下がって時を過ごしました。その頃の浜岡は砂丘がみごとに続いていたので、そこに海水を撒いて塩づくりをして暮しを支えました。芋切干しや煮干しも作りました。三女はすっかり弱ってしまい、肺炎や大腸カタルなど病気ばかりしていました。

そんなある朝、母が私を海に連れて行ってくれました。引き揚げてから母と二人で出かけることがなかったので、私はうれしくてたまりませんでした。海岸に出ると母はそのまま私の手を引いて海の中に入っていきました。まっすぐ前を向いたまま。私の胸まで海水が来た時、私は怖くなって母の手を思わず引っ張って岸に向かって走り出しました。すると母はふっと我に返り、岸のほうに向かって私と歩き始めました。引き揚げの大変な苦労にも根を挙げなかった母が内地での暮らしに疲れてしまったのです。そんな敗戦後の困窮生活は引揚者でなくても多くの方が体験していることと思いますので、この辺で「私の戦争体験記」は一応終了したいと思います。


今思うこと

父は私が二十三歳の時五十八歳で亡くなりました。三女は五十四歳で亡くなりました。母は九五歳で一昨年亡くなりました。先日の母の三回忌には娘が孫を連れて参加してくれました。いのちというのはこうして繋がっていくのだと思います。そのいのちをつなげるのがどれだけ大変か、どれだけ多くの人のお蔭があってのことかと改めて強く感じました。その命を大切につなげていくのが人生でもあるのです。

いのちを蔑ろにすることは決して許されることではありません。その最たるものが戦争です。

あれから七十年が過ぎましたが、その影響は今もいろいろな形で残っています。母の介護をしながら、母の聞き書きをしている時、「戦争だけはしてはいけないよ。」と遺言のように言っていました。


米寿超え「百歳を思う」と詠む母の文字は揺ぎて掠れいつつも


注:この文は母からの聞き書きも加えて書きました。年号、数字など正確でないことがあると思います。ご容赦ください。









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