ゲバラの肖像画内務省の壁

キューバ紀行:No.1 :No.2 :No.3


 ビバ・キューバ 1



はじめに

4月のある日、西ヶ谷さんから「キューバに行ったそうだが、関心を持っている人が多いと思うから旅行記を書いてほしい。」というメールが届いた時、「内緒で行ってきたのにどうして知っているのかしら。」と思いました。今回の旅は日本AALAの人たちが企画した「キューバ学習訪問」なので、ハバナ大学の教授をはじめ各研究所の第一級の研究者から毎日講演を聞く旅なのです。私は「それならわざわざキューバに行かなくてもいいのではないかしら。」と思ったのですが、「そんなことはない。現地に行って学んでこそその意味が分かるのです。」という企画者の説得に負けて参加したというのが本当のところだったです。

そんな事情を西ヶ谷さんにお話しし、お断りをしました。その数日後、藪崎さんから「教授の講演要旨を書いたものなんてつまらない。裏話を書いてほしい。」というメールが来ました。裏話などないと言うと、「何か探せばあるよ」とのことでした。実はキューバでCDを買ったのですが、パソコンでは聞けるのに、車の中では音が出ないのです。それを聞けるようにしてくれたのが藪崎さんなのです。その方に反抗しては罰が当たると思い、何とか書くしかないと思って書きはじめました。


60年以上前に乗り捨てられたアメ車を修理し、タクシーとして使っているたくましいキューバ人とそれに乗車するアメリカ人観光客

キューバ第一印象「人権」

愚作ながらいきなり短歌で失礼します。
教育と医療は人権と誇らしく語るキューバ人の顔の明るさ
この二つを人権と捉える豊かな人間性がキューバなのだと実感しました。

革命広場:メーデーなどの時は数十万人もの人が広場を埋め尽くす。周りにはラウル・カストロ国家評議会議長のオフィス、共産党本部、内務省、情報通信省、郵政省が集まる国家の中心地です。ゲバラの肖像が内務省の壁を飾っています。


 ビバ・キューバ 2



何でキューバなの?

キューバは日本の本州の約半分の小さな島です。米国との距離は約140kmしかありません。そんな小さな国キューバが1959年の革命勝利後、社会改革を進めながら、米国の激しい干渉を受けつつも、自主的な立場を守り、独立を維持して来ました。主権を守り続けているキューバの存在は、現在のラテンアメリカで社会改革を進める左派政権にとって大きな励みになっています。しかし一方でキューバは、現在積年の経済困難に立ち向かい、経済改革を行っています。そんなキューバに足を運び、キューバ人と直接話が出来たらよいと思い、AALAの皆さんと出掛けました。
ビッグニュース 米国が「テロ支援国家」解除
今年の5月29日に米国務省はキューバに対するテロ支援国家指定を正式に解除しました。1982年の指定以来33年ぶりの解除です。指定解除で、キューバに対する経済援助の禁止、世界銀行や国際通貨基金(IMF)など、国際金融機関による融資の規制、武器輸出の禁止も解除されます。両国の国交正常化や相互の大使館の開催も可能になることと思います。
米国は、キューバを除いた米大陸全体の自由貿易圏を作って、影響力を強めようとしましたが、南米諸国の反対で失敗し、逆にキューバの参加を求める声に包囲されてしまいました。米国の政策はキューバではなく、米国を孤立させてしまったのです。
ただ半世紀以上も押し付けている経済封鎖は今後も続くので、輸出や援助に関する制約はほとんど残ります。私たちがキューバを訪れたのは3月でしたが、すでに米国から沢山の観光客が来ていました。「急激にキューバは変わっているよ。少しでも生活が楽になることを期待しているよ。」と女性が話してくれました。

写真説明:60年以上前に乗り捨てられたアメ車を修理し、タクシーとして使っているたくましいキューバ人とそれに乗車するアメリカ人観光客

現地の活動家の皆さんと夕食を共にしたとき、キューバンミュージックを披露してくださった方々。ラテン系のリズムはすぐ体が動いてしまいます。


 ビバ・キューバ 3



ビックニュース-2 7月1日 国交回復と大使館再開正式に発表

米国がキューバ革命政権を敵視して1961年一方的に国交を断絶して以来の歴史的合意です。オバマ米大統領は「キューバを孤立させる努力が逆効果を生み、米州の近隣諸国のなかで米国を孤立させた」と方針の破綻を認めました。米国は「キューバと協力する新しい道を見つける」と述べましたが、キューバは経済封鎖解除と基地返還を求めていますので、国交回復と関係正常化は分けて考えなくてはならないと思いました。

写真説明:現地の活動家の皆さんと夕食を共にしたとき、キューバンミュージックを披露してくださった方々。ラテン系のリズムはすぐ体が動いてしまいます。



革命博物館 革命勝利への道

現在のキューバを知るにはキューバの革命の歴史を知らないと理解できませんよね。ハバナにある革命博物館はそのための建物でした。バチスタ政権の掃討作戦で命を落としたカストロ率いる革命軍のメンバーの写真や遺品、モンカダ兵衛襲撃の写真、侵略の経路、拠点、ゲバラとカストロの政略、武器などパネルや図面を使って丁寧に説明してあります。ワクワクする緊張感ある内容ですが、ここでは紙面の関係で要点のみ書かせてもらいます。
キューバはスペイン、イギリス、フランス、オランダンなどの国々に支配されてきましたが、1902年にキューバは独立します。しかし米国のキューバ介入を許可する条項を憲法につけられます。そのためアメリカ人がキューバの政治・経済を支配し、我が物顔でキューバを歩きまわりました。ごく少数のキューバ人がアメリカに従属し、国民を弾圧し自らの利益を守りました。政治は腐敗し、国民の利益、キューバの利益を考える政治家はごく少なくなりました。失業者は、常に国民の4分の1でした。国民の43%が文盲で、義務教育の8年間を終了する者は、国民のわずか7%というありさまでした。また農村には医療はほとんど普及していませんでした。1952年 親米派のバチスタ政権が樹立しますが、キューバ国民の生活は益々窮地に追いやられます。

これが例の有名なグランマ号の実物です。カストロ、ゲバラを含め82名の青年たちがキューバを目指してこのヨットでメキシコを出発します。本物がきれいに手入れされ、ガラス入りで展示されています。




「歴史は私に無罪を証明するだろう」

国民の生活が窮地に追いやられてしまったキューバを見て、カストロは1953年7月26日 フィデロ・カストロは153名の同志とバチスタ政権打倒の蜂起をします。サン・ティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営襲撃を企てますが、作戦は失敗に終わり、多くの同志が殺され、フィデロ・カストロも捕えられます。しかし、この計画は、全国的に、独裁者にたいし “立ち上がるべき時がきた”ことを知らせるものでした。カストロは、この裁判の自己弁論で「歴史は私に無罪を証明するであろう」と述べ、自らの行動の正当性を主張しました。これは大変有名は弁論ですよね。
1955年 カストロは特別恩赦で釈放されるや、より国民と密接に結びついた形で革命を進めるため、統一戦線組織である「7・26運動」を結成します。そのためキューバ国内では反バチスタ独裁感情が急速に高まっていきました。
カストロをはじめ青年たちは、メキシコに亡命し革命の準備をします。それに真の社会変革を求めてラテンアメリカを放浪していたエルネスト・チェ・ゲバラも参加します。
1956年11月25日82人の青年たちを乗せたヨット「グランマ」号は、キューバ東部に上陸を企てますが予定より遅れたこと、上陸予定地とは異なる地に上陸したことなどにより、事前に発覚し、バチスタ軍の攻撃によって42名がなくなりました。以来、山中に逃げ込みゲリラ戦を展開しながら勢力を拡大し、サンタ・クララではバチスタ政権の装甲車を襲撃し多くの武器を奪取します。12月末までに21名がシエラ・マエストラ山中で再結集しました。この時、カストロはバチスタ政権の腐敗と弾圧政治を国民はまったく支持していないこと、逆に国民の多数が7・26運動を支持していることを確信して、「この上陸作戦は勝利した」と宣言します。カストロの生存を知った多くの農民が支持を寄せ、1958年には解放区も作られます。人民社会党もゲリラ戦に参加し、反乱軍の力が増大します。
1958年11月 オリエント州で全面的な攻撃が開始されました。また、アメリカ政府も内外で不人気なバチスタ政権を見限ることを決めます。
1959年1月1日 革命軍が勝利を果たします。

写真説明:これが例の有名なグランマ号の実物です。カストロ、ゲバラを含め82名の青年たちがキューバを目指してこのヨットでメキシコを出発します。本物がきれいに手入れされ、ガラス入りで展示されています。


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